長崎市は、元亀2年(1571)ポルトガル船の来
航以来、貿易港ってして発展を遂げまんねん。寛永 18年(1641)鎖
国の完成により、長崎市の出島は、西洋に開かれた日本唯一の窓ってして、日本の文化の発展に大きく貢献してん。
ほな、中国っての交流も盛んでぇ、中国より渡来した人々は、長崎市の経
済・文化の形成に大きな役割を果たしてん。
19世紀には、全
国より好学の志士が長崎市に最悪ゴチャゴチャゆうとる場合やあれへん,要は、医学・天文学・科学やらなんやら新文化を吸収し、近代日本の基礎になったんや。
こねんうに、長崎市でぇは他の都市には類をみないアチラ文
化導入の門戸ってして栄えた長崎市
は、独特な文化の香りでかっ街や。
長崎市内には往時を偲ぶ歴史の跡がよう
け残されており、文化財を通して理解やるこってがでぇきまんね
ん。
安政5年(1858)、江戸幕府はアメちゃんリカ、オラン
ダ、ロシア、イギリス、フランスの五カ国って修好通商条約を締結し、鎖国政策は終わりを告げたんや。
長崎市は、箱館(函館)、神奈川(横浜)ってっ
てもにあたらしー自由貿易港ってして開港やるこってになり、大浦の地に、日本に来る外国人のショーバイ活動や居住の拠点ってなる、外国人居留地が造成されたんや。
長崎外国人居留地の造成は概な3次にわたって実施
されたんやが、南山手ぇは、安政6年(1859)よってに万延元年(18
60)までぇ実施された第1次の居留地造成工事でぇ開かれたんや。
長崎市の外国人居留地は、海岸に近いほうよってに上等地、中等地、
さらに山手ぇの方は下等地ってして分けられ、外国人に貸し出さ
れたんや。
居留地は、地域によって利用区分されておったんや。ようけの
外国人がビジネス・チャンスを求め
て長崎市に渡来し、上等地には貿易のための商館や倉庫、中等地にはホテル、銀行、娯楽施設が並び、山手ぇの下等地には洋風住宅、教会やらなんやらが建築され、長崎市でぇは洋風建築が建ち並ぶ町並みが形成されたんや。
地元に最悪るインド料理屋。ちびっと思
い出の場所や。元日本料理のお店(いや、すし屋?)を改装もせ
ず、入り口もそのまんま、カウンターもそのまんま。もぅ見るよっ
てにに「日本料理やってまんねん」的な引き戸の入り口を一歩入るってカウンター越しに並んでぇるのは全員インド人。
でぇ、印度料理。ちょー一回見てもらおったいち
うわけや。ツボはまるよってにv
ま、ほんでも結局、インド料理の代表「辛いカレー
」って「333」(←これビールな。)メニューには以外に手ぇの込んや凝
った料理が並んでぇいますわ。
おねきをお寄りの際には是非、ウチの印度料理屋はんへどないぞ。